二宮和也「見知らぬ乗客」考察

考察です。

ひとつ前のエントリー、舞台のレポは、こんな書き出しで書き始めました。

>誠に、ニノ萌えは難しい。


>もしもこれが、『セカチュー』みたいな純愛物語だったら、「感動した」とぽろぽろ泣けただろうに。
>もしもこれが、『Stand By Me』みたいなミュージカルだったら、「ニノ可愛い!」と微笑めただろうに。

>だけれど『見知らぬ乗客』が開幕し、
>「STRANG
>ERS ON
>A TRAIN」
>とゴシックで書かれた黒い幕が開いたとき、
>そこにいたのはポマードでアメリカの古い映画みたいにオールバックをきめたオッサンが二人。

>可愛いニノはいつ出てくるんだろうとドキドキと待っていると、
>そのオッサンの片方が、ニノだった。
>あれ。
>全然可愛くない!

と、
誠にこれは、
ひとことで「可愛かった」「面白かった」などとは言えない作品でした。

レポの最後は、こう締めくくりました。

>愛していた人が、憎む人だった。
>憎んでいたはずの人を、愛していた。
>見知らぬ乗客が、見知らぬ乗客の原罪を、今、愛とともに引き受けた。
>ドン!

                    ◆◇◆◇◆

ニノ扮するブルーノは、金持ちのアル中。
その、金持ちで頭の悪いアル中、という、全くカッコよくない一人の人間が、
最もカッコよくない方法で愛を求めるのが、この作品だったように思います。

一つ目の愛は、最も険しい存在、父親への愛。
ブルーノは父親を嫌い、父親を殺してしまいますが、父親と築き損ねた愛がそもそもの、この物語の出発点でした。

二つ目の愛は、最も近い存在、母親への愛。
母親との関係は、「二人きりなら、僕たちは恋人にもなれる」と近親相姦的に描かれていますが、
感情的には、純粋な親子の愛情に近いと思います。
自分が見るもの全てを母親にも見て欲しい、自分を愛して欲しい。
性愛的に愛し合っていましたが、この二人の真ん中にあるのは、ごく普通の親子の関係のように思えました。
ところが、
この「母親への愛」は満たされない、そして、そのことに、ブルーノはうっすらと気づいている。
ブルーノがアル中で自分を失ったときついに、母親は言います。
「これ以上一緒にいることはできないわ、誰かに助けてもらいましょう」
最も近い愛なのに、報われることは、なかった。

三つ目の愛が、最も遠い存在、ガイへの愛。
二人は列車の中で見知らぬ乗客として知り合っただけなのですが、
ブルーノが勝手に実行した殺人計画に巻き込まれる形で、運命を共にすることとなります。
ブルーノは終始、「僕は君が好きだよ」と言っていたけれど、狂ったブルーノをガイは嫌っていた。
しかし、「君にも、人を殺したいと思ったことがあるはずだ」という、アル中ブルーノが語ったひとひらの真実、その1点をきっかけにして、二人は心理的に繋がったように思えます。
ガイが殺したいと思っていた相手を、ブルーノが勝手に殺してしまう。
「ブルーノが勝手に殺したんだ!」と言えば容易く、自分は無実になれただろうに、ガイがそうしなかったのは自分の中に、「殺したい」という感情があったこと、そして、その感情を共有している「見知らぬ乗客」がいたから、に他ならないように思います。
「殺したい」という感情を抱く自分が、相手が、とても憎い。憎いけれども愛しい、それは、相反する感情でした。

そして結局、
最も遠い、見知らぬ存在だったはずの相手・ガイが、
人生を狂わせる事件に巻き込まれた被害者のはずのガイが、
ブルーノが死んだ後、ブルーノを「愛していました」と言う。

最後、
ガイが「お願いします」と逮捕を求めて手を差し出す。
まるで、ブルーノが背負っていた罪(「生きていることの罪」あるいは「原罪」のような、とても重い種類のもの)を、背負う。

最も遠い場所に、
もっとも重い愛が刻まれた。
憎しみと一体になったような、重い愛。

結局のところ、
これはそういう話だったのではないかと思います。

                    ◆◇◆◇◆

愛とは何か。
二宮和也が描きたかった「愛」とは何か。

たとえば「世界の中心で愛を叫ぶ」とか、「ロミオとジュリエット」で描かれるような、
美しい二人が出会って世の中の色を変えるような幸福。
それはもちろん「愛」でしょうが、
ニノはそれでは満足しなかった。

グローブ座という小さな洞窟みたいな空間で、

「世の中で最も格好悪い人間が、世界で一番遠いところにいる見知らぬ乗客に、最も格好の悪い愛を刻ませた」

そんな、ドストエフスキー的な、あるいは哲学的な場所にある「愛」をニノは堂々と提示して、そして描いたように思います。

その「愛」の選び方が、なんともニノらしくて、私はゴクリと唾を飲んでしまいます。

「愛とは何か」それはカートゥンKAT−TUNの2ndシーズンではなくて、
多くの芸術家が悩み、そして、そのために死んでいったテーマでした。

確かシューベルトは手紙で、こう切実に打ち明けていました。

>愛を歌おうとすると、それは悲しみになった。
>悲しみを歌おうとすると、それは愛になった。
>こうして愛と悲しみは私を引き裂いた。

悲しみと、あるいは憎しみと、一体となって分からない魍魎とした塊としての愛、
ニノが示したものは、そういう種類のものに感じられました。

                    ◆◇◆◇◆

誠に、ニノ萌えは難しい。

この舞台全体を通して、ニノは(4回もやってくれたキラキラのカーテンコールを除いて)一度も可愛くなかったし、
ストーリーは重く、幸せな涙を流すこともなかった。

しかし、ニノが見せてみたかった世界、描いてみたかった愛、ニノが背負っている孤独のような風味。

そういうものは、あの狭い空間にたっぷりと満ち満ちていて、
それは間違いなく、ニノ萌えでした。

見知らぬ観客としてその場に居合わせて私は、
……ううん、
どんな気分になったのだろう!

まだ言葉にならない、けれど、
見知らぬ観客として、ものすごい舞台に出会い、ニノに引っ張られているような感覚、なのです。

「こんな世界もあるんだぜ」
って、
ニノが手品のハンカチをめくって、気味良さそうに新しい世界を見せてくれるかのように、
自分の中にひとつ、新しい風が吹きました。

生きていてニノと出会ったということが、ブラウン管を通したファンタジーではなく、
生きて時を刻みんでいるニノの人生に触れているんだという実感を、
とても強くしました。